収録文章

📝コーラス(母)  06年8月13日
📝小中学校の思い出(母)  06年8月20日
📝食い物のうらみ(父)  06年8月23日
📝ブラスバンドと音楽(父)  06年10月9日
📝歌に夢中(母)  06年12月31日
📝お寿司のシャリ  06年8月6日
📝墓… いつか自然に  23年7月22日
📝引きこもりから脱出  23年10月9日

コーラス(母)
2006年8月13日記載

カルチャーセンターのコーラスに入って2年半になります。毎週金曜日の午後1時半~3時半の2時間歌っています。

今はこの時間が、私の生活の重要なポイントを占めているのですが、入った動機というのはこんなことだったのです。

たまたま何年か振りに、
デパートで同級生に会って話をした時のこと。その同級生は、学校時代どちらかと言えば物静かで目立たない感じでした。

ところが明るく話す同級生。
生き生きとしていて、若々しい様子。聞けばダンスとパッチワークをしているとのこと。

「生活のはりができて元気になった」
と話していました。

私が特に何もしていないと聞くと、
「なにが好きなことを見つけてしてみれば」
と勧められたのです。

さっそく近所のカルチャーセンターに問い合わせてみると、料理、語学、手芸などいろいろな講座がありました。

さて、なにをしようか?

カルチャーセンターで料理はしたくないし、
手芸は好きではない。宿題があると大変だしとなかなか決まらない。いろいろ見ているうちに、目にとまったのがコーラスだったのです。

時間はちょうどいいし、みんなと歌うだけで、宿題もないだろうし、歌うのは好きな方だし~♪との理由でコーラスにしました。

軽い気持ちで入ったコーラスでしたが、指導する先生は、オペラのオーディションに合格するような実力の持ち主。

様々な場所でお披露目会もある。
カルチャーセンター内のロビーでのコンサート、文化センターでの合唱祭への参加など…

団員は、平均年齢60歳後半だけれど、若々しい歌声だし熱心だし出席率抜群!

高い声が出にくい、息が続かないなど、
悩みは多いけど『人間、鍛えれば、それなりに伸びる』を心の支えに、

夫の『鳥の絞め殺したような声』の評を物ともせずに日々練習に励んでいます。


小中学校の思い出(母)
2006年8月20日記載

『団塊の世代』という言葉を、
ここ1~2年テレビラジオ等いろんなメディアで聞いたことがあると思います。

団塊の世代とは、昭和22~24年生まれの人のことを言います。

第二次世界大戦が終わり、兵隊さんが帰還し、戦争で亡くなった人をとり戻すかのように多くの赤ちゃんが生まれました。

私もその世代、昭和23年生まれです。
生まれたときは、当然ながら同級生がそんなに生まれていたとは、つゆも知りませんでした。

商店街に生まれましたが、
100メートルほどの間に実に17人、この団塊の世代がいたのです。

幼稚園に入園することになりましたが、
あまりの人数の多さに教室が足りず、午前と午後の2部制になりました。

1丁目~8丁目と9丁目~16丁目の、
2つのグループに分けて、週替わりに午前と午後通園していました。

次は小学校。ここでも教室が足りなくて、
講堂 (今だったら体育館)をベニア板で区切り、教室にしていました。

授業中、隣りの教室や生徒の声が聞こえてきたのを覚えています。先生もやりにくかったことだろうを思います。

そうこうするうちに新校舎ができ、やっと普通の教室に入ることができました。11クラス、同級生は約550人もいました。

中学校では、私たちが入学するまでに校舎をもう一つ建ててくれました。

木造の平屋で、運動場につき出すように建っていたので『岬校舎』と呼ばれていました。

二つの小学校が集まり、同級生は約750人、15クラスになりました。

この岬校舎では、真新しい木を汚してはいけないということで、掃除は雑巾がけではなく布袋に入ったぬかで床をみがいていました。

入学した年に給食がはじまりました。
パン係りだった私は、バットにいっぱい入った食パンを、給食室から教室に運びました。

そのパンの数の多さ、そして先生から1人4枚ずつ配るようにと言われた時の驚きを、忘れることができません。

一人4枚ですよ!それでも野球部の体の大きい男の子は、それでも足りないのか、弁当箱にごはんを入れて持ってきて食べていました。

私は食パンを4枚も食べれません。
半分は家に持って帰っていました。家で揚げパンかパン粉になりました。

牛乳も今とは違って、脱脂粉乳と言うマズくて少し冷えると表面に膜が張ります。給食の中でこのミルクが一番嫌でした。

ある男子生徒が、床の節穴にミルクを捨てていたのを先生に見つかり、怒られていました。

机を並べると一番後ろは、人が通るのがやっとという狭さでした。

暑い日、寒い日、毎日。

冷暖房などありませんでしたが、不思議と「暑かった。寒かった」という記憶はありません。

この岬校舎は今はなく、思い出となり、元の運動場に戻っています。

*私も書いておきます。2006年8月20日記

私も母親と同じ中学校でした。
私が通っていた頃には、この岬校舎はまだありましたが、残念ながら岬校舎で授業を受けることはありませんでした。

私の頃は一学年12組。岬校舎は1年1組から8組まで、私は1年9組でしたから。入ったことも一回あったかどうか。

さて私の中学の思い出として。
ある日学校に行ったら、校門に来ても誰もいなかったので「あれっ」と思い、すぐに今日が学校の創立記念日であることを思い出し、別に誰も見ていないのに、顔を真赤にして帰ったという恥ずかしい思い出です。


食い物のうらみ(父)
2006年8月23日記載

私は昭和16年生まれ。
第二次世界大戦が始まったその年に生まれた。さらに空襲に家を焼かれ、親戚を頼って着の身着のまま田舎に疎開した。

疎開先は農家だったが食い物は別。物心ついた時から食料難がずっと付いて回った。

父は工場務めであったが、終戦直後働き手一人で8人家族では如何ともし難く、腹7分目がやっとの事だった。だから小さい頃の思い出のエンゲル係数は特に高い。

一番最初の記憶は確か5才くらい。
何か病気になり、おかゆを炊いてくれたが、茶碗一杯に満たない量。食べ終わって、もう無いと判り、思わず泣き出した事がある。

その次の記憶は、夕食用に準備されていたさつま芋の角切りと、少しの米が入った鍋から、生の芋を摘んで齧った時の芋の甘さである。

今は飽食の時代である。
昔とは比較にならないほど豊かな生活になった。でもきっと長続きはしない。

世界の人口は増え続けている。砂漠化で耕地面積は減り、そしてみんな肉を食いたがる。そんな事が長く続くはずが無い。

その内再び来るはずの渇食の時代へ向け、私の体験と愚考を押し売りしたい。

〈思い出の食材あれこれ〉
昭和20年~24年疎開時代
さつま芋、かぼちゃ、とうもろこし粉ばかり…
こんな食生活ではたんぱく質が足りないと本能的に知っていたのか、子供達も積極的に狩猟採集生活を頑張っていた。

①もう一度食べたいとは思わない食材たち

 その1 タニシ
 稲刈りのあと田んぼから拾ってくる。
 簡単に拾え大きなカゴに山盛りの収穫。
 ゆでて味噌を付けて食べたが、泥臭い。

 その2 どじょう
 子供が集まり、小川を5mほど堰き止め、
 水を掻き出して一網打尽。
 味噌汁に入れたが生臭さ強烈だった。
 柳川鍋など現在もあるが味はどうなのか。

 その3 かいこのサナギ(まゆを取った後)
 乾燥が悪かったのか匂い強し。
 今でも釣りのエサでお目にかかる。
 でも食べる気は全くしない。

②うまいと思った食材たち

 その1 子ブナ
 兄二人が近くの小川ですくった。串に刺
 し焼いて食べたが香ばしく旨かった。

 その2 イナゴ
 たんぼで集め糞を出させたあと生きたま
 ま鍋で炒り、少し醤油を垂らす。
 足がやや気になるがなかなかいけた。
 後年東京でビールのつまみにイナゴの佃
 煮が出され、懐かしさのあまり口にした
 が、特に選ぶほどの味ではなかった。

 その3 木の実3題
 桑  紫色の小粒の実が房にすずなり。
    口が紫色に変色するが、甘酸っぱ
    く旨かった。
 もく 小さい実であるがまだ青い内にと
    り米びつの中に保存して黒くなる
    と食べ頃、高い木なので木登りの
    才能を要し主に兄たちが取った。
 まき 生垣にする  まきの木の実。
    ぬるぬるした食感だけ記憶あり。

ヘビとカエルは何故か食べる事が無かった。
後年中国で食べる機会があったが結構な味。当時なぜ食べなかったか不思議である。偏見があったのだろうか?

③今も昔もうまかった食材たち

 その1 ブリ
 父が取引先から頂き物。たらいに並んだ
 2匹が記憶にあるが、味の記憶が無い。

 その2 マツタケ
 豪華にカゴ一杯焼いて食べたが、腹の足
 しにはならず。贅沢な不満が残った。

 その3 干あんず
 小学校で一人3個ずつ配られた。
 とてもうまかった。もっと食べたいと、
 タネをどこかに埋めた記憶がある。

しかしここまで書いて気が付いた。

③のマツタケや①②の多くは今のたんぼや小川、山や野原で見かけないものが多い。

農薬による沈黙の春もあるが、コンクリートで固めた川や地面の影響が大きいのだろう。

日本は今人口減少の時代に入っている。
高齢化も進み、労働力不足。そして移民政策を取れとか議論されている。

しかし良いことではないか。
江戸時代の人口は約3000万。食料自給率は100%だったのだ。日本の人口が今の半分でも、イギリス、フランスなどとほぼ同じで、十分世界の主要国でいられるはずだ。 

自給率40%では、食料不足の世界でとても安心しては暮らせない。

国土を固めたコンクリートを剥がし、
自然豊かな日本を取り戻し、食料自給を目指すのも良い政策では?

私も及ばずながら家庭菜園で技術を磨き、食料自給に貢献したい。

以上

ブラスバンドと音楽(父)
2006年10月9日記載

昔むかしあるところに中学生がいて、
ブラスバンド部に所属、メロフォーンなる金管楽器を吹いていた。

ブラスバンドに入ったのは、
別に音楽が好きであったのではなく、たまたま同級生に誘われた結果である。

しかも1年生の時は入部しただけで、楽器の割り当ても無く、上級生で編成されたバンドが練習しているのを見るだけ。

我々1年生は楽器にさわる事はあまりなかったと記憶している。

2年生になり、我々の学年と新1年生による編成が行われて、やっと本格的に自分の楽器を持つことができた。

割り当てられたのは、メロフォーンというアルトを丸くしてホルンに近い形に似せた楽器。

行進曲ではブンチャブンチャのチャの部分だけを受け持つものであった。

序曲のように、いろんな楽器が交代してメロディーを受け持つ曲もある。でも活動した2年間、メロディーなぞ見る影もない。

花形のトランペットやクラリネット、サックスやトロンボーンに対して、ただ和音を付けるだけのごくごく地味な存在だった。

もっとも体は小さく、風采も上がらず、音楽のおの字も無い家庭で育った身では、先生の見立ても妥当なところだったか。

当時ブラスバンド部指導の先生は、
県内では吹奏楽活動の先覚者で熱心かつ実績も上げている方。練習は厳しく毎日数時間の練習、夏休みも殆ど登校した。

しかしメロディーに無関係の我らが楽器。
特に第二アルトなる譜面を渡されていた私にとっては、吹き方で個人指導を受けることも無く、お気楽に過ごしていた。

第一トランペットの某君などは、
高音が出ないと散々個人練習をさせられていたのに対し、取り敢えず音を鳴らしていると叱られる事も無く時が流れていった。

それでも先生の熱心な指導により、結構腕も上がったとの記憶がある。2年生の秋、徳島県の大会で富田中学と一緒に金賞になった。

富田中学も若く熱心な先生が指導し、
それまでの名門だった我々の中学に対して、急速に技術が接近していた。

当時四国吹奏楽連盟はまだ無く、
四国の学校は関西吹奏楽連盟の所属で、我々は大阪の中ノ島公会堂で開かれた、関西吹奏楽連盟の大会に参加させてもらった。

天理高校や今津中学など、子供心にも素晴らしいと思われる演奏に、圧倒される気分だったが、中学校の部で6位の結果。富田中学はこの大会には参加しなかった。

このような大会出場の他に、
いろんな行事に駆り出される。県内各地に出掛けて演奏やパレードを行った。

例 商店街の宣伝の為のパレード(小松島)
  ドイツ大使の歓迎式
  野球の応援(表彰式での演奏)
  プロレス興行の景気付け(東富士だ)

このような行事に参加していた時に、楽器の盗難されたと記憶している。大きな金管楽器を主体に盗まれたのである。

当時は銅や真鍮などの金属屑類は、結構高値で取引されていた。その目的だろう。

コンクールを控えるも練習できなくなり、他校から楽器を借りたのが友情の表れと、徳島新聞に載ったのを記憶している。

翌年は部員数は膨れ上がる。でも演奏会に出るのは前年に編成された約30名のメンバーで固定。目立たない楽器であったことが幸いしてか、下手な私も首にならなかった。

前年と同じメンバーで継続したためか演奏のレベルも随分上がったようだ。

その成果を試す3年生の時の関西吹奏楽コンクールでは、堂々3位入賞を果たした。

これはたいした事らしく、インターネットで調べてみると、徳島県吹奏楽連盟の発展期の記録として残っていた。

ブラスバンド部で得られたことはなにか?

①音楽など全く縁のなかった私が興味と
 少しの自信を持つようになった。
②譜面が読めるようになり通信簿で音楽
 の評価は大抵5段階で5をもらった。

中学校を卒業、高校3年間は工業高校であったこともあり、全く音楽には縁は無かった。

当時人気絶頂であったザピーナッツのヒット曲の歌詞などをノートにメモする程度であった。

しかしこのブラスバンドへ入った事が、社会人になってからのモダンジャズへの興味、寮の楽団への参加など趣味として音楽に親しんだ事の原因となったのに間違いはない。

中学生の時に、ブラスバンドに誘ってくれた同級生Y君に感謝したい。 

以上

*実は私も中学生の時に、
ブラスバンド部に所属していました。小学校で少し体験があり、何となく入りました。担当は第ニくらいのトランペット。

県大会で金賞も、高知で開かれた四国大会で銅賞つまり最下位という結果。その後は楽器や音楽などに全く興味を示さず現在に至っています。

このページの両親の文章は、
このホームページを始めた頃に、何か自分のことを書きてほしいと頼んだもの。

この文章を読んで、父親がブラスバンドをしていたことを初めて知りました。同じ中学校で、しかも共にその時だけ。

だからと言って別に… ですが、何となくの感慨みたいなことはありますね。2023年8月15日記

歌に夢中(母)
2006年12月31日記載

カルチャーセンターにて、
コーラスを頑張っていたある日のこと。ボイストレーニングの講座に興味を引かれました。

ボイストレーニングと聞くと、
何を思い浮かべますか?歌手、若い人、アナウンサーなど、私は想像しました。

コーラス団員として、
もっと声を出せるようにしたい!入ってみたい。でもついていけなかったら… 不安。

なので、センターにお願いして講座を見学させてもらうことにしました。

参加者は30代から80才までの25人。
(その内男の人3名、熟年の方)
まず、全員で声を出す。
(音楽にあわせて、アイウエオなど)
起立して大声を出す。
(本当にものすごく大きい!)
課題曲の練習など。
全員で声を出した後で、一人または2~3人で声を出したり歌ったりする。

上手い、上手くないは別にして、
一人一人が堂々として声を出しているのに感心させられました。

それに対して先生がアドバイスを与える。このアドバイスがいいのです。決してくささない。

他の人と比べるのではなく、
その人の上達したところを褒める。褒めながら直すところを言うのです。

温かくて良い先生だと思いました。

見学の人もどうぞ!ということで、
私もドレミに合わせて「まま………」と言いながら歌いました。すると先生は「いい声しているネ」と言ってくれました。

先生にしてみれば、
格別褒めるところがないので、唯一良いところを見つけて言ってくれたものとは思います。

でもこの一言で、
「ボイストレーニングを受けてみよう」
「80才までコーラス団員として歌い続けよう」
と思いました。

人は老いも若きも褒め言葉には弱いもの。でもやる気を起こさせる原動力にはなりますね!

只今講義は皆勤中です。

先生はポピュラー音楽が専門で、課題曲はポピュラーが中心です。

風になりたい、さくら、雪の華など

リズムに乗れず、歌いにくい等の理由で、
これまで歌おうとしなかった歌も、少しずつ歌えるになりました。

以前は、あまり聞こうとしなかった若い人の歌を聴くようになり、女性コーラスの曲と共に、音楽の幅が広がったように思います。

来年2月に講座の発表会があります。毎日テープを聴きながら、練習に励んでいます。

お寿司のシャリ
2006年8月6日記載

お年寄りの先入観、頭の固さ。
物事に対して、昔「これはこうだ」と思ってしまうと「この方が絶対いいよ」と説明しても、なかなか受け入れてくれません。

数カ月前、我が家の夕食で、手作りの握り寿司が登場したときのことです。

皆さんのお宅でもそうかもしれませんが、
素人が握り寿司を作ると、どうしてもシャリが大きくなってしまいます。またお酢が利きすぎてしまいます。肝心の味の方も、

回転寿司などの寿司とは比較にならない。大きなシャリを食べるのに精一杯。

バランスも悪いし「こぼさないように」とか思っていることもあって、ネタの味なんかさっぱり分からなくなるのです。

私「なんか美味しくないな。店だとシャリ
  が小さいだろ。そうしてみたら」
私の素直な質問に、両親はこう答えます。
母「家で握り寿司を作ると、どうしてもシ
  ャリが大きくなってしまうんよ」
私「だから、小さくすればいいだろ」
母「家で手作りだとどうしても大きくなる
  の。スーパーのおばちゃんの作る寿司
  もそうだし」
父「家で作ると大きくなるよ。昔から」
母「あれって不思議やね~」
私「だから!小さくすればいいだろ!シャ
  リを取った時に、それを半分にすれば
  できるだろうが!」
父「家で作るとどうしても大きくなるよ、
  昔から。シャリを大きくすれば安くて
  いっぱい食べれるからな」
私「たまにしかしないんだから。多少高く
  ついても美味しいほうがいいでしょう。
  試してみろよ。一回ぐらい」
父「昔から決まってんだよ。家で素人が作
  るとシャリを必ず大きくなる」
母「そうそう。どうしても大きくなる。不
  思議やね~」
私「作ってみろ!って。決まってるわけな
  いだろ!そんなもん」

この後もしばらく話したのですが、両親は私の意見をテコでも受け入れません。

家で作る握り寿司のシャリは必ず大きくなる。
いったい何なのでしょうか?年配者の訳の分からない先入観は!

今はそうでもないけれど、昔の握り寿司は、確かに高級な食べ物です。

父は昭和16年、母は昭和23年生まれ。
子供の頃に頭に刻まれたことは、冷静に考えれば私の意見が良いと思うのに…

というより、試しにしてみたらという話にも耳を傾けない両親。なぜなのでしょうか?頭固いよな~よう分からん!

それから1カ月後、我が家でまた握り寿司が登場しました。母親が作っている最中、側に行って見てみると、やっぱり大きい。

「ちょっと俺にさせてみろ!」
私は小さいシャリの握り寿司を作りました。誰にでも出来ますよ!

食べてみるとやっぱりこの方が美味しい。
私「ど~お!」
母「あ~この方が美味しいね」
父「……」
母「でもお父さん。家で作ると大きくなる
  って不思議やね~」

もう~勝手にしてくれ!

*その後、わが家のお寿司のシャリは、徐々に小さくなっていきました。2022年1月29日記


墓… いつか自然に
2023年7月22日記載

*ブログで3回に分けて掲載。編集してまとめてみました。

『墓… いつか自然に』と題して、
何度も登場の、とある工事現場にて、現場近くにある古い墓のお話です。

現場の入口付近には、古い墓があります。
年代は江戸時代中期から明治時代。一番古いのは天和 (1681∼1684年)。新しいので明治初期。

*一応書いておきます。
*どなた関係の墓なのか?調べていません。古い墓を見て想像してみた程度のことです。

1️⃣山道から2㍍程下にある古びた墓
奥は竹やぶ。時代は一番古く江戸中期の頃。竹はあまり整備されていない。

2️⃣同じ墓を別の角度から撮影
こんな感じで墓は人知れず、人知れずのものになるのでしょうか?

3️⃣先の墓より50㍍程離れた場所
江戸中期から末期頃。山は比較的整備され、なかなかに立派な佇まいである。でも墓は苔に覆われて時代を感じさせる。

4️⃣同じ墓を少し離れて撮影
左下方向に山道。実は墓と道の間には、木や草があり、墓があるとは気付きにくい。

5️⃣二つの墓群?の間にある墓
一番新しく江戸後期から明治三年。近所の子孫の方がたまに来て、供え物をしている。

*もう一度書いておきます。
*どなた関係の墓なのか?調べていません。古い墓を見て想像してみた程度のことです。

さて… 何か書くか。

まぁ改まって書くことはないけれど、
何か書くね… では!『とある工事現場』のすぐ側にあるこれら3つの墓群たち。

墓とは故人を弔うためのご遺骨の収蔵場所。
そして遺族が、故人が生きた証を後世に伝えたいとの思いもあるでしょう。

墓を大切に守る子孫が近くにいて、
定期的にお供物をしたり、掃除をしたり、世話をする人がいる間は… だ。

でも過疎化が深刻な徳島の田舎。
世話する人がいなくなれば、周囲は荒れ果て、墓は苔に覆われ、風化は加速する。

墓の文字も、次第にわからなくなり、
墓は『らしき石』となり、忘れ去られ、草木を覆われ、再び自然に戻るのだろうか。

そうか… その方がいいかな…

かつて日本の支配者の巨大な墓、前方後円墳も今は湖に囲まれた小山になったように…

過去に生きた人を伝える記念碑は、いつしか朽ち果て自然に戻る運命なのだろう。

*どなたの関係の墓なのか?調べていません。なので絶対にフィクションとなります。

引きこもりから脱出
2023年10月9日記載

*ブログで8回に分けて書いたものを、編集してまとめました。

⭐PART1

引きこもりからの脱出方法。
私は以前4年間引きこもっていた。その生活から何とか抜け出して、現在に至る。

つい最近そのことを話す機会があり、その人から脱出の経験談を何百万人の引きこもっている若い人に伝えるべきだ!と言う。

そこで書いてみようと思います。

引きこもりから脱出に必要なこと…
脱出したいと思うこと。キッカケが必要であること。これが最低条件でしょう。それがなければそのままだろうな…

実際そんな人もいるでしょう。
生きることは、何かしら生きた証を残したい、爪痕を残したいと思うことが普通。でもしたくない人もいるでしょうね。

でも経験者として否定はしません。
引きこもり当初の私には、底なしの絶望感が支配していました。世の中と自分自身に嫌でたまらなかった。もう無理だ… と

世の中はいろいろな人がいるので…
一般論では引きこもりなどダメだ!なぜそんなことをするのか?でしょうけれど…

まあしかし…
引きこもりからは脱出した方がいいでしょう。私はよかったと思っています。

では始めましょう。でもその前に、
引きこもりの期間は、絶対に無駄ではない!今現在の私はそう断言できます。では!

⭐PART2

引きこもりから脱出に必要なことは、
脱出したいと思うこと。キッカケが必要だということ。だと⭐PART1で書きました。

何もかもが嫌になる。
特に自分が、社会生活に全くアジャストできないことが嫌で、引きこもることになりました。でも私の場合、自分はまだ何もしていないとの思いがありました。

まだ何もしていない!生きた証は残したい!
つまり私は脱出したいと思っていました。だから後はキッカケがあればOKです。

まずは体調不良。いぼ痔の悪化、初の便秘とインポになる。これはヤバイなと思ったこと。

次に囲碁と将棋で、ホームページで紹介していることを広めたいという目標ができたこと。

引きこもり生活していた頃、
囲碁と将棋に興味を持ちました、他にすることは何もないし、CSの囲碁将棋チャンネルを四六時中観ていて思い付き、これって凄いんじゃないか?と思ったこと。

もっとも趣味半分だし、
暇つぶしのお気楽に… ではありますが、今もまだ続けている目標です。

そしてもう一つあります。
これは書きたくはないのですが… でも誰も読んでいないし、思い切って書いちゃおう!

⭐PART3

この体験は本当にあった事実です。
詳しくは恥ずかしいのと、頭がおかしいと思われるので適当に…

頭の中で失恋をしたのです。
詳しくは書きません。とにかく生まれて初めて物凄く後悔をしました。

ショックを受けて、激しく動揺しました。
すると足先から頭まで、身体がビリビリと痺れてきたのです。その痺れが収まる… と

頭の思考が急に回転し始める。
頭と身体が一致する感覚。霧が晴れて生まれ変わった気になる。絡まっていた頭と身体を繋ぐ神経回路が、急にほどけた感覚になる。

そんな不思議な体験をしました。
嘘のようなホントの話。でも今でもはっきり覚えている事実です。

ここで一応フォローしておきます。
私の場合は、多分極端な例だとは思う。でもそれは誰にでもあることだと考えています。

詳しくは後で書くことにして、その不思議な体験後どうなったか紹介します。

⭐PART4

それまでの私の行動や言動で、
意味が分からない断片的なことが、全て結び付いた感覚になったのです。

そこで過去の経験を思い返してみる。
どうしてこんなことになったのか?分からなかったことが分かる気になる。

あれ?もしかしたら…
あの時のあれは、正しかったのだろうか???そんな気になったのです。

当時はそんな感じでハイテンションに…
今は冷静に考えられる。自分がどういう人間なのかを理解できたということになります。

その内容は伏せておきます。
でも自分のことを理解できたことに、嬉しさと自信を持つことができました。

これが私が引きこもり生活から、
脱出できたキッカケです。今思い返しても不思議な体験。でも事実です。

⭐PART5

私が体験したこの不思議な出来事。
誰にでもあることだと ⭐PART4で書きました。それについて私なりの理解を書いてみます。

誰でも生まれた時は、純粋で真白な状態。
それが成長するにつれて、廻りから様々なたくさんの影響を受けることになる。

楽しい嬉しいことだけじゃない。
世の中の理不尽さ、他人との比較、努力だけじゃ不可能。自分の才能の限界など、大変でつらく苦しいことの方が多い。

そんな外的な作用により、
元々の純粋で真白な状態は変化していく。例えるならプログラムのような感じ。

生まれた時はプログラムはされていない。全て0か全て1の状態。それが外的な影響により、徐々にプログラミングされていく。

一般的な言い方をすれば、
成長していく過程で廻りから影響を受けると、自分がどのような人間であるかを認識する。世の中のことを理解して、世渡りの仕方を覚えていく。

要するに子供から大人になるという訳だ。

時には長所を理解して自信を持つ。
時には競争に負けてショックを受ける。良いも悪いも経験したり、頑張って成功して自信を持ったり、ダメで挫折してショックを受けたり…

そんな経験を重ねて子供は大人に成長する。

⭐PART6

私が体験した不思議な出来事。誰にでもある。でも私は極端だと書きました。

つまり私の場合、その時まで外的な影響を全く受けなかったのだと今では理解しています。

自信も持てずショックも受けずにいた。
その時まで私のプログラムは、生まれた時と同じ純粋で真白な状態だったという訳です。

ポジティブに考えれば、
我が、桁外れに強いか?何かしらのとてつもない才能があるか?となるし、

ネガティブに考えれば、何の努力も頑張りもしない単なるヘタレ何でしょ?となります。

どちらなのか?今の私が思うのは、
ネガティブについては絶対に当てはまる。ポジティブについては、そうであって欲しい!という願望が頭の中にいつもあります。一応何となくは感じることがあるからです。

それが何なのか?具体的には分かりません。
でもあの時の不思議な体験。意味があってのことだったと思いたいのです。

それはどうしてか?今の私が人生を歩んでいくモチベーションになっているからです。

⭐PART7

さてまとめに入りましょう。
経験者として言えること。引きこもりからの脱却の仕方?なんて分かりません。

人生はなるようにしかならない。
何をどうしようともどうにもならない。できる人はできるし、そうでなければできない。

それじゃダメなので…
脱却できた今の私に言えること。実は引きこもりの前と後で、特に変わっていないのです。

言動や行動、してること。同じです。
でも違いがあります。ダメだと思うことの理由が分かるようになったこと。

前は分からなくてただ落ち込んでいた。
今は分かるので、落ち込むけれど一瞬だけで、すぐに切り替えられる。すぐにスタートできる。

スタートして何を目指しているか?
引きこもりの頃の精神状態に、なれる環境を探しているのです。

自分が楽になり、安心できる。
そんな場所を探している。働いて社会貢献して、自分自身は楽で安定した精神状態でいられる。

そんな場所を探しているのです。
世間や廻りの人の目など気にしない。自分の気持ちに正直に、自信を持って探し続けていく。

いつまでも… あると信じて… だ。

⭐PART8

現在引きこもり中の人で、
脱出したいな… と少しでも思っている人に、私から言えるもう一つは、

大器晩成かも… という期待。
あくまでも… 期待です。私を含む引きこもった人の共通点は、自分を出す、表現することが苦手だということ。

それが得意な人や月並みにできる人は、若い頃から社会の一員として人生を歩むことができる。

なぜ自分を表現することが苦手なのか?
期待を込めて… ですが、世間的な評価のあまりない能力がある。もしくは桁外れの才能がある。

世間的に評価の高いことに興味があれば、悩むことはない。桁外れの能力を要すれば、バランスが崩れて孤立してしまう。

その人に運があれば… です。
そんな才能や能力なんてないかもしれないし、たいしたことないかもしれない。でも…

この世に生を受けた以上、どんな人にも何かしら生きた証を残してもらいたい。

やっぱりそれが私の本音です。怖くても勇気を持って一歩前に踏み出して欲しい。

引きこもり経験者の私が言える最後の一つ。
社会復帰した後の人生はすごく面白いということです。それはなぜか?

何があってもあの時よりマシ!と思えるから

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